『夜と霧』怖がらずに読んでほしい。生きる勇気の湧く本です。

 V・E・フランクル『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』(みすず書房(霜山徳爾訳))を読みました。 

ユダヤ人の心理学者ヴィクトール・エミール・フランクルが、ナチス強制収容所での体験について囚人たちの心理学的分析も交えながら記録した、言わずと知れた名著です。

 

 

精神の崩壊を防ぐのは「内的」な充実

強制収容所内でのあまりに非人道的な出来事の数々ー暴力、飢餓、不衛生…まさに死と隣り合わせの生活、むしろ死んだ方がましと考える者も現れるような現実、読むのに辛い描写がたくさんあります。 

そんな中でも、私が驚き心を動かされたのは、次のようなエピソードです。

 

フランクルはどんなに過酷な状況の中でも、愛する妻に思いを馳せ、想像の中の妻と語り合うことによって、内的に充たされていた(浄福になり得ると気づいた!)こと。(悲しいことに、この時すでに妻は殺されているのです…)

・労働で疲れ果て死んだように横たわっていたところに仲間から叩き起こされ、ともに美しい夕日を見たこと。その時の仲間の一人の言葉「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」。

・収容所で臨時の演芸会が催されることがあり、囚人たちは歌や詩、風刺的なコメディを楽しむことがあったこと。中にはスープ(食事)の分配にあずかれずとも演芸会に参加する者もいたこと。

フランクルと友人の囚人同士で、一日に一つ愉快な話を見つけることをお互いの義務としていたこと。

 

愛する人が目の前におらずとも想像上の姿を思うだけで充たされた気持ちになれること、美しいものを美しいと思える心を失っていなかったこと、飢餓状態の中で「飯よりも芸術」という選択があり得たこと、視点を変えて現状を楽しむユーモアを忘れなかったこと…心を動かさずにはいられません。

私にこんな態度が取れるだろうか。

 

フランクルは、以下のように指摘しています。

元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、(中略)外的状況を苦痛ではあるにせよ彼らの精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜならば彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。(中略)かくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。

 

問題は、私が人生に何を期待するかではなく、人生が私に何を期待するか

一人の囚人が、フランクルにそっと秘密を打ち明けます。

彼は夢の中で、戦争が終わり解放されるのは5月30日であるという予言を聞いたと言うのです。2月にこの夢を見た彼は、フランクルに話を打ち明けたとき、希望に満ち夢の声の正しさを確信していました。

しかし、予言の期限がどんどん近づいても戦争が終わる見込みは立ちません。5月29日、彼は突然高熱を出し、5月30日にはひどいせん妄状態に陥って意識を失い、そして5月31日に亡くなりました。

「期待していた解放の時が当たらなかったことについての深刻な失望」が彼の身体の抵抗力を急激に低下させ死に至らしめたのです。

 

1944年のクリスマスや新年には、収容所内で大量の死亡者が出たといいます。

「クリスマスには家に帰れるだろうという素朴な希望」が叶わず、「一般的な失望や落胆」によって自己放棄の状態となり、人々は死んでしまうのです。

 

「私はもう人生には何も期待できない」と絶望の淵に立ったとき。

フランクルは言います、問題は、私たちが人生に何を期待できるかではなく、むしろ人生が何を私たちに期待しているのかだと。

視点のコペルニクス的転回です。

私たちが人生の意味を問うのではなく、私たち自身が人生に問われているのです。

 

 

これだけの過酷な経験の中から導き出されたこの力強い結論…!

とても感動しているのですが、私のこの拙い文章でこの感動が伝わる気がしません。

停電の夜、囚人たちの仲間に対してフランクルが語った内容も素晴らしいです。

ぜひ読んでみてください。

 

『夜と霧』というタイトル

ちなみに、『夜と霧』というのは、日本語訳をした霜山徳爾のつけたタイトルです。

ドイツ語の原題は『Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager』、日本語に訳すと「一人の心理学者が強制収容所を体験する」で、フランクルの書いた著書の中には「夜と霧」という言葉は一度も出てきません。

 

「夜と霧」とは何かと言うと、1941 年12月に出されたヒトラーの特別命令(法律)の通称です。

日本での治安維持法のようなものかと思うのですが、ナチスにとっての危険人物を夜間秘密裏に捕縛して強制収容所に送り、その安否や居所を家族や親戚にも知らせないとするもので、”夜と霧のように誰の目にもうつらないように消し去る”みたいなニュアンスのようです。

法律にこんなにも美しく情緒的なネーミングをするなんて…。しかも”体制に反対するものを亡き者にする”という冷酷な命令に対してです。その感覚に背筋が凍りつきます…。

訳者の霜山氏はこの「夜と霧」が「強制収容所の全貌をより簡潔に象徴すると思われる」という理由から日本語訳のタイトルに選びました。

 

この本、ドイツ本国では1946年の出版当初は全然売れず2年後には絶版扱いとなっていたところ、1956年に出版された日本語訳『夜と霧』がベストセラーになったことをきっかけに、世界的に読まれる名著となりました。

フランクルの書いた体験記の内容からすると、「夜と霧」という暗く怪しいタイトルは、果たして適切に中身を反映しているのだろうか…?という疑問を持ちましたが、「強制収容所における一心理学者の体験」という平板なタイトルであれば、あるいはこんなに売れなかったのかも?と想像したりもしました。

怪しげで情緒的なタイトルと、表紙に使われている写真(ユダヤ人がナチスに捕らえられる場面)などが人々の心に引っ掛かったという効果があったのではと推察します。

 

勇気を出して読んでみてほしい

『夜と霧』は、重いテーマを扱い胸が締めつけられるような実体験の記録も多々ありながらも、読後感はとても爽やかです。

平たく言うと、人間って本当にすごいんだなと。語彙がなさすぎる自分にがっかりですが、生きる勇気がわきます。

 

「読みたい気持ちはあるけど、重い内容すぎてなかなか手が出ないな」とふんぎりのつかない方には、是非とも勇気を出して読んで!と肩を押したい気持ちです。

 

ただ、本書の最後にまとめられている写真と図版には注意してください。

これが現実であることに間違いはないのですが、あまりに残虐で目を背けたくなるような写真が何枚もあります。

気持ちの繊細な方、読後の晴れ晴れとした気持ちを保ちたい方は、写真と図版は先に目を通してから、フランクルの書いた文章を読まれることをお勧めします。

(私は、読書途中で写真と図版を確認しましたが、あまりにショッキングな写真で頭から残像がこびりついて離れず、しばらく眠りにつけませんでした…。)

 

また、霜山訳の旧版にはフランクルの文章の前に結構な分量の「解説」がついていますが、新版(池田香代子訳)には「解説」と「写真と図版」はなく、純粋にフランクルの文章だけを扱っているようです。

文体も霜山訳は古めかしく硬いためやや読みづらさも感じます。池田訳の方が柔らかいらしいです。

 

いずれにせよ、一読されることを強くオススメしたい本です。