事実は小説よりも奇なり〜『日本のいちばん長い日』を読んで

半藤一利『日本のいちばん長い日 決定版 運命の八月十五日』(文藝春秋)を読みました。

日本人として生まれた以上、一度は読んでおきたい本です。

 

 

 

24時間内に起こった出来事とは思えない

タイトルのとおり、「これがほんとうに一日の間に起こったことなのか」とにわかには信じがたいほどの数々のドラマが、あちらこちら次から次へと巻き起こる長い長ーい1日のお話です。

1945年8月14日の正午から翌8月15日の正午までの1日について、1時間ごとが一つの章になっているので、ちょうど24章+プロローグとエピローグとなっています。

それぞれの章のタイトルは、「十四日正午ー午後一時 ”わが屍を超えてゆけ” 阿南陸相はいった」など、「日時・セリフ・誰々はいった」の形式になっています。

「”斬る覚悟でなければ成功しない” 畑中少佐はいった」「”兵にわたしの心をいって聞かせよう” 天皇はいわれた(昭和天皇のセリフだけは”いわれた”)」など、毎時間毎時間何らかのドラマがあるんだろうということを想起させるタイトルです。

 

民衆にとっての8月15日ではなく、政府・宮内庁関係者とNHK、クーデターを起こそうとした陸軍の青年将校たちの物語です。

登場人物は多いし、基本的な史実が頭に入っていないと特に最初の方は読みづらい部分もあるかもしれません。

現実の世界がそうであるように、様々な場所で、様々な人物がそれぞれの思いのもとに行動しています。なので場面転換が頻回です。

でも多少よく分からなくても、とりあえず頑張って読み進めてみてください。

途中からどんどん目を見張る展開が繰り広げられて、ページを繰る手が止められなくなること請け合いです。

ほんとに、1日の間に、これだけの出来事があったのか、と。

 

読んでいてほんと面白いなと思った点

玉音放送のあれだけの長い文章を、あんな直前まで細かい文言について喧々諤々大人数で議論していたこと。

・決まった詔書の文章を急ぎ手で清書したときに一部書き飛ばしてしまい、正式な文書であるにも関わらず原稿用紙の隙間に書き足したこと。

玉音放送の録音盤(正副2枚)の保管場所は、成り行きで書類入れの軽金庫(天皇のものをこうしたところにしまうという例は滅多にない)に収められたことにより、のちにクーデターを起こした兵隊たちに見つかることなく済んだこと。

・官邸護衛の巡査の気の利いた一言。首相の命を狙って官邸を襲おうとした青年将校に対して、「実は私はあなた方の味方だ。首相はここではなく私邸にいるのでそっちを襲撃せよ(意訳)」とアドバイス。と見せかけて、すぐに私邸にいる首相に逃げるよう告げ口したこと。(とっさの判断と演技すごすぎる!)

などなど・・・

 

 

阿南陸相の生きざま

阿南陸軍大臣は、最後まで陸軍の代表としてその意思を内閣で伝え続け、最期は8月15日の朝自決します。

8月14日の夜中に仕事を終えて自邸に戻ってからは一睡もすることなく、もう死ぬと決めているのに疲労回復のためのビタミン注射を打ったり(お付きのものに「これから死ぬのでいらん」とも言えなかった)、遺書を書いたり、義弟でもある部下と酒を酌み交わして語らったり(そのとき義弟の仲間は皇居でクーデターを起こしていることを知りながら)、そんな風に過ごします。

これから死ぬ、と決めている人間のこの時間の過ごし方…想像を絶します。

鈴木首相への最後の挨拶、戦死した次男への思い、など涙なしには読めません。

 

戦争に加担した者を礼賛するのか、と問われればその意図は全くありません。

帝国陸軍が起こしてきた行動は許されるべきものではありません。

それでも泣けます。

ちなみにWikipediaの阿南陸相のページも読みごたえがあります。

昭和天皇との交流(昭和天皇は阿南(あなみ)陸相のことを親しみをこめて「アナン」と呼んでいたそう)も泣けます。

 

史実を書くということ

いわゆる宮城事件の主犯格である畑中少佐は、陸軍の青年将校として「国体護持」のためクーデターを起こそうとする若者(当時33歳)で、たくさんの人物が登場するこの本の中でも特に重要な人物の一人です。

この本は1967年と2015年に映画化されていますが、1967年版の映画では血気盛んな人物として描かれおり、実際の彼を知る人からは”純朴で物静かな文学青年という印象であった”という批判の声があったそうです。(2015年版の松坂桃李が演じた彼はまだ穏やからしい。)

 

 

 

 

本を読んでいても、興奮して軍の上司や先輩・同僚に自説を語って事件を実行していく彼の様子からは、直情的だから純朴といえば純朴かもしれないけど、”物静かな文学青年”というイメージは湧きにくいです。

あるいは、事件を起こす前の彼を知る人の印象は”物静か”かもしれないけど、事件を起こした当時は人格・性格が変わっていたということもあり得ます。

 

まったくのフィクションとは異なり、生きている人間、生きていた人間を扱うドキュメンタリーや歴史小説においては、この点は本当に注意しなければならないなぁと思います(作り手も読み手も)。

本の中の描写、セリフが「リアリティに溢れてドラマチック」に感じらるほど、それは実際の史実を反映しておらず、作者の想像の産物である可能性が高いです。

NHK大河ドラマとか、司馬遼太郎歴史小説とか…あれを「純粋な史実だ」と考えてはなりませんよ。必ず、何かしらのフィルターがかかっています。

 

でもね、歴史的な事実のみを真摯にくそ真面目に書いたもの、例えば歴史学の論文なんかは、こう言っちゃなんですが、面白みに欠けるんですよね…。眠くなる。

私は、多くの人が歴史について学ぶ、知ることはとても大事だと思っています。

一部の専門家だけではなくて一般の人が歴史に親しむためには、”読み物として面白さ”ってある程度は必要なんじゃないかな。その加減が書き手の腕の見せ所というか。

 

そして読み手の側もウブに何もかも信じるのではなくて、”これは何かしらのフィルターがかかっている”っていう観点を頭の片隅に入れながら読む、という態度は大人として必要だと思います。

ま、これって歴史に限った話じゃないですが。

 

あの戦争で犠牲になったすべての人々(日本の侵略により被害を受けた諸外国の方々や戦争に巻き込まれた日本人)に追悼の意を込めて。